維新派@犬島
海くさい風をモロに受けながら、船はぐんぐん進む。
一人で来てるのは私くらいかな、いや、結構いるなあ。
ベネッセの息がかかった犬島。港のそばには、3年前にはなかった建物。
おしゃれになるのはいいことだが、私はベネッセという会社にどことなく違和感がある。
瀬戸内国際芸術祭とか言って維新派だってそれに乗っかっているわけだが、できれば別ものとして考えてほしい。
屋台はいつになくヒートアップし、アジアの市場に迷いこんだような熱気。
いいなあ、維新派。すでにもう来てよかったと思うよ。
木と流木を組み合わせた高低さのある込み入った舞台。
全身白塗りで年齢不詳な人々が独特のリズムと音階と動きで時間を進めていく。
私が維新派に会ったのは1997年くらい。
2007年のノスタルジア頃から作風が変わり、ちょっと人間味を増した気がする。
もちろん私はそちらのほうが好きだし歓迎なんだが、今回は「戦争の悲しさ」とか「別れ」という普遍的な感情が下に流れていて、意外だった。無表情は相変わらずだが、セリフや表現、音楽、肌にまとわりつく風、ロスコの匂い、だんだん暮れていく夜、そのすべてが美しくて、ちょっと涙がでた。
これ野外でなかったら、多分違う芝居だろ。埼玉はどうするんだろう。この価値の半分以上は場所にあるというのに。
船が出るまでの1時間半、ライブや大道芸をみて、波の音の横でビールをのみ続け、うどんとかかき揚げをたべる。
おとといの夜、満月亭のまりこさんにいわれた
「あなたは未来からきた人だからねえ。人とよろこびをわかちあうために生まれてきた魂のふるーい人だからねえ。もう、外国いっちゃえば?」という意外な言葉を思い返す。
バックパッカー@岡山
昨日30歳になりました。
休みは取れたが、この平日をどう過ごすかと考え、船の手配が面倒で諦めていた維新派を犬島に見に行こうと決めました。
とはいえ、チケットはほぼ完売状態。
当日券出るかわからんがとにかく犬島まで来ればなんとかなるよと、関係者がいうので、密航ルートも聞き出し、普段の朝より早く家を出た。
一人旅は久しぶり。
岡山に着く。船とチケットのセットが販売されるという「林原モータープール」へ。維新派とは何の関係ない一般の駐車場。ほんまにここ…?「受け付けの人はいつも2時間後くらいにくるよ〜」とこれまた無関係なおじさん。
暇だ。はらへった。
バラ寿司のおいしい店を本屋でリサーチ。電話番号と地図を頭に焼き付ける。
歩けど歩けどたどりつかん。電話すると、迎えにきてくれるという。自転車で。
大将が。
どうやら私は地図の縮尺を見てなかったみたい。だいぶ遠かったよ。
大将は徒歩だったよ。
すごい広い店なのに客は私だけ。もしかして店名が「夜寿司」だから?ランチは気まぐれ?不安がよぎるが、向こうも妙齢の女子の扱いに困っているそぶり。
バラ寿司はホントにおいしかった。死んだ香川のおばあちゃんがよく作ってくれた味に似てた。でも「祖母の味」といわれたところで、プロのプライドを傷つけてはと思い「おいしかった」としか言えなかった。おいしかったおいしかった。
まだ時間あるけど、他の人に先を越されては悔しいのでモータープールに戻ることに。
どこからともなく現れたおじさんがのんびり長机を運びはじめ、維新派と書かれたボロボロの紙にセロテープを貼って受付完成。
私のほかは女子高生がいるだけで、あっけなくチケットが手に入った。
「帰りは遅い船しか残ってないので岡山に戻るのが夜12時頃になりますね」
終電乗れないね。
かくして、私には宿探しという新たなミッションも加わることに。
バックパッカーだよ、岡山で。誕生日に。
夜中にお祝いをしてくれるという友達に謝りのメールを入れ、ホテルを尋ね歩く。
安くてもいいけどラブホは嫌だな、テンション下がるとこもやだな、予算的に帰りの新幹線をやめることにして小綺麗なホテルに落ち着く。
なんだか1日を久々に自分で作っている気がする。
小沢健二ライブ「ひふみよ」
青春というものがあるとすれば、はじめのほうのそれは、小沢健二そのものだ。
8センチCDで、テープで、MDで、iPodで15年以上聴き続けた声が、すぐそばにあった。
あの頃20代だった王子も、40歳を越えて、でも世の中から数センチ浮いた感じはそのままで、センター分けサラサラヘアもそのままで、骨の形と長さがよくわかる手や足もおんなじで、それはそれでちょっと笑えた。
真っ暗闇から始まったライブは、甘い声で自作の散文の朗読をはさみながら、ずんずん塗り変えられていく絵のように進み、曖昧だった「小沢健二」のイメージがだんだん形を持ち始める。
彼らしいのは、それが語りかけではなく、文字の朗読だいうこと。噛みもするし、言い直しもする。
おそらく客の大半が初めてであろう生のオザケンワールドは、泣いたり笑ったりして迎え入れられてた。
「この国の大衆音楽の一部であることを嬉しく思います」
そう言って、自作の音に身を委ねる。どんな気持ちだろう。歌というものを通して価値観を提示する、歌手であることに違いはないのだが、13年たって同じ歌を同じテンションで同じ意味を込めて歌える、一人の不思議なおっさんがそこにいた。
複雑な思考回路を理解しようとするけどどうしても埋まりきらない溝、があって、まぁ彼の魅力はその「わからなさ」に集約される。
ラブリーの歌詞を少し変え、新曲を3つ披露し、何故かスカパラの今後の予定を告知し、自分の今後については何も云わずに、夢のように去って行った。
次に会えるのは、私が45歳の頃だろうか。
オザケンに浮気してたら、今日せっちゃんに子供が生まれた。
二人は絶対友達にならないだろうけど同じほど愛している私の二面性を自分でもうまく説明できない。
島崎今日子@ナナゲイ
先週、第七芸術劇場というディープな映画館に
島崎今日子の講演を聞きに行った。
アエラの「現代の肖像」のインタビュアーや
朝日新聞のテレビ時評「キュー」などを担当している人。
十三という土地の持つ猥雑さと、業界人とか、何やら婦人運動にせいを出していそうな目だけがらんらんと光っている女性たちの中で「慣れっこ」な雰囲気を出せばよいのか、存在を消せばよいのかよくわからずに、まごつきながら着席。
聞き手は朝日新聞の阿久沢悦子記者。
二人はいわゆる「フェミニスト」らしく、女、女女、女、女と連発していた。
その辺はあまり興味がないのでスルー。
(というか、挙げられたすべての題材が取り立てて騒ぐほどのことではないと思った私は、筋金入りのフェミニストなのかもしれない)
ものすんごいためになる取材スタイルの話がいろいろ聞けたのだが
一週間たっても心に残っている言葉は、本筋とはあまりカンケーない
「声には、育ち方や環境が表れる」。
阿久沢記者は、少し甘えたトーンのフェミニンな声。
本人は、記者という職業柄なめられるので嫌でたまらないと言った後の発言だった。
私には「声と話し方が許せない」人がいる。
ただ、それは本人には何の瑕疵もないので
その人を好きになれない自分の小ささをこれまで呪ってきたが、
それを聞いて、やはり私はその人を形作るおおもとが嫌いなのだから嫌いなのだと確信した。
で、心がちょっと軽くなった。
目に入るすべての情報に意味を見いだす、
記者としてというより人として、そういう癖をつけなきゃなーと思った。
女子会の真相
29歳を迎える友人を囲んで焼き29。俗にいう「女子会」である。
ここで女子会に多大な幻想を抱いている男性諸君に伝えたい。今日の私たちの議題を。
●VラインはわかるがIラインの脱毛には何の意味があるのか。(それならいっそのことない方がいいのではないか)
●三十路を超えた独身女子がするべき結婚式の余興とは。(これまでに見た「餅吸いショー」「新婦によるSMショー」「官能小説朗読」が挙がる。終わっている)
●無意識に食い逃げをしてしまったら、どうすればよいか。(自殺するほかない)
●近頃全身がかゆい。(みんなそう言ってる。大阪に細菌兵器が落とされたのかも)
●ブランドモノのティーカップを毎年1脚ずつプレゼントしてくれる女性先輩の恐怖。(もらっておけば良い)
●シネマセラピストに会った。(映画の衣装の色の解説だった。「この二人は補色の関係です」など。彼女自身から不幸オーラが発されていて説得力に欠けた)
●学生時代に食べ狂っていた居酒屋「林」の焼きうどんの美味しさについて。(つまり貧乏だった)
いかがか。