「演劇1」「演劇2」

想田和弘監督の観察映画「演劇1」「演劇2」を見た。5時間42分。

想田和弘監督 映画『演劇1 演劇2』公式サイト

幾度となく、このブログでも青年団系の芝居について書いてきた。

私は青年団という劇団を知った16歳くらいの頃、あまりに自然なその口語演劇に猛烈な「かっこよさ」を感じ、京都で稽古があると知ればのぞきに行き、平田オリザのワークショップがあると知れば参加し(確か北海道だったか)、挙句の果てに出演者公募のオーディションに応募し、伊丹アイホールで「でも高校生じゃ、授業はどうするの?」とオリザさんに困られた経験の持ち主である。結局そのオーディションには落ちたけど(高校生というのだけが落ちた理由ではないと思う)。

しかし、仮に私がそのときにオリザさんに気に入られ、青年団に入団したとて、幸せな「役者生活」が送れていたかと想像すれば、圧倒的に疑問符がともる。

なぜなら、平田オリザという人は「役者は将棋のコマ」と言い切り、秒単位で役者の動きを制限し、内面からにじみ出る何かよりも、表層を完成させることに力を注ぐからだ。ただ、観客の立場からすれば、青年団の芝居は登場人物の心の繊細な内面をのぞいた気になって満足できるので、プロセスがどうかは、確かにどうでもよい話である。

演劇にまったく興味のない友人にその話をすると「演出家がドSで、俳優がドMなんちゃう」と笑った。一部ではそれも真理かもしれない。または、役者が職人仕事に徹することに喜びを見出す人の集合体。マッドな研究者。

とにかく、どんな人が役者に選ばれるのか、という点に私の興味はあった。ずっと。

青年団の裏の裏まで1年に渡って密着したこのドキュメンタリー映画の中で、いくつかの納得や発見があった。

役者さんへのインタビューシーン。
「オリザさんは稽古で役者ではなく、脚本を追っていることもある。脚本はきっと楽譜みたいなもので、彼の中でははじめから完璧にすべてが決まっていることなのだと思う」


ロボット演劇の稽古場のシーンで、オリザさんがロボットに対するダメ出し(実際には操作をする人への指示)が、普段の役者への要求と何一つ変わらないものだった点。私が役者だったら、きっと自己否定されたような気になる。けど、2体のロボットと共演した役者さんは、自らが出せる人間らしさについて少なくとも立ち止まっていたし、人間の俺の方が優れているもんね、とはとても言いださない寛容さがあった。

青年団の役者が優秀で、見ていて違和感がないのは、自己肯定とか自己陶酔が目的ではなく、自分が演劇を通じて社会に発信していきたいものの方向性(人間の精神の不可思議さ)が劇団ひいてはオリザさんと限りなくマッチしているということなのだろうなというのがその結論。
当たり前といえば当たり前なのだが、劇団はもとより、会社という社会においても、この根本的な関係性でつまずいている人は多いように思う。私も含め。

一体、人は、演じるということを特別視しがちだが、誰もが社会生活を営む上での演じ手であることに気付いておらず、もしくは認めようとしないまま、心を病んで、他人のせいにしている。

そんな人ばっかりで、このままいけば、日本という国はやばいよ。そこまで考えて、演劇というフィールドから教育や政治の場へアプローチを仕掛けている彼の「今」は、悶々と厭世的な気持ちを抱えている人へのひとすじの光、ということになるだろうと感じた。

いい、ドキュメンタリーだった。

なんか頭でっかちな感想になったが、おかしな政治家の言動に笑えたり、劇団内の出来事にほっこりしたり、オリザさんの冷静さは冷たさとは違うんだな、とわかるところもたくさんあって、映画としても大変愉快だった。