鹿564「スーパースター」
憧れの劇団である。劇団鹿殺し。
ポップでロックでウェットでメロディアス。
劇団結成10周年記念公演「スーパースター」。
何をやってもうまくいかない漫画家の兄と、ボクシングチャンピオンでスーパースターの弟。
生まれながらに「星」を持っている人とそうでない人。兄はその「星」をどうにか掴もうと、立ち退きを迫られた団地の一室でもんもんと過ごしている。幼い頃とかわりばえのしないメンバーと、ぱっとしない日々の回想がマンガを通して綴られる。ただそのマンガは、自分が描いた覚えがないのだ・・・。
「2010年は10年目の自分たちへむけた作品たちを上演していきます」
パンフレットにそう書かれていた。自分たちへ、と言われても客であるこちらはとまどう。
しかし考えてみれば、客はそこにいる役者の真実を見抜こうとしているわけで、自分と向き合えていない役者や自分たちのつくるものに自信のない役者などに用はないのだ。自信?自信。そういうことを言っているのか。
演技のうまいへたではない、歌のうまいへたでもない、ただただ「この作品、この劇団、そしてここにいる自分を私は信じている、お前らはどうだ」というクレイジーな圧力というのだろうか、それを全役者から等しく感じる。
なんだかすごく楽しそうで、つらそうで、かっこいい。
キューティーパピー役で、エロい格好をした女優の衣装のビニール部分が途中で破れて、なんか乳とか尻とか見えそうになりながらも、鬼気迫る笑みで激しいダンスを踊っていた。これを彼女のお父さんが見ていたらどう思うだろうか。そういう部分に憧れて止まない。
映画監督の前でカオナシ
映画監督のインタビューに遅刻。
いや正確には遅刻しそうになった。
梅田駅から太融寺まで10分でダッシュ。
史上最低に運痴な私が。
監督とは、三浦大輔さん。演劇界の期待の星でもあり、前から注目していた人であり、つまり私としては、気合いの入ったインタビューだったわけだが、何度も言うが遅刻しかけた。
部屋に通されたとたん、汗ダラアアアアやのに暖房ブオオオオ。
「では原作のどういう部分に共感されて映画化を?」
ハンカチを手に冷静を装おってインタビューはじめたんはええけど汗止まらんがな。
「監督が役者に求めるものとは…」ダラアアアア
「…めっちゃ汗出てますよ」
気づかれた。
「だ、大丈夫です」
「マ、マス…カラがすごいことになってますよ」
ドエエエ
「すみません」
「いや、拭かれた方が…」
そんなに…?
「……うわー…、すみません」
二日酔いでも徹夜でも見たことない、ホラーみたいな私の紛れもなく、顔。
なんかプチッて切れた。渦に落ちた。ハンカチもよう見たらネコの尻尾だけびよーんとはみ出た意味わからんやつ。
いつ買った?これ。林さんの餞別返しや。
おもろいがな。
以後、どんなに真剣な問いをしても「カオナシがしゃべってる…カオナシが…カオナシが…アハハ…アハハ…」と幽体離脱状態。
監督はイケメンでした。
監督は流暢でした。
そして監督は半笑いを隠す微笑でした。
私が逆の立場なら、そんな大人な対応はできません。
また一歩、小林麻央から遠ざかりました。
劇団千年王国
「もしコレを観ておもしろくなければ自腹で全額返金します」
「もしお金がないなら、僕が自腹で立替えます」
自腹。劇場プロデューサーさんがそこまで言うなら、ということで観に行ってきました。
劇団千年王国「贋作物」。
狩野派に生まれ育った二人の兄弟。兄は日本画の伝統を守る正統派、弟は怪しいブローカーと組んでニセモノを描き、ようわからん西洋人に法外の値段で売りさばくヤンキー絵師。だが、そのニセモノの絵が天才的にうまく、プロの目さえもごまかしてしまうほどだからたちが悪い。そして、実は兄ではなく弟こそが正統な血筋を持って生まれた存在であることがわかり、2人は葛藤。悲劇に発展する。
ものすごいスピードとエネルギーで展開されるのではじめはついてくのに必死。
滑舌が悪かったり少しでもつかえたり、声が小さかったりすると一瞬で役者までもが置いて行かれるハラハラ感。
かつての第三舞台とかつかこうへいを思わせる唾飛び散る感。
ひさびさにそんな世界をのぞいた気がして血が踊り出す。
おそらくほとんどの客が「日本画のことはようわからん」「時代背景もよう知らん」という状況において、ここまで釘付けにさせるのは、役者と脚本における「色気」だと思う。
遊郭を舞台に、金儲けをたくらむよからぬ連中。なんかシュッとしててイヤミな兄。だが「認められたい」「勝負したろやんけー」と真剣にあがく姿は、現代人(私)がひた隠しにする熱さそのものであって、見れば見るほどちょいと心が痛むのだ。
北海道の劇団で、なにやらいろいろと賞をもらっているらしい。
この種の真面目さがもっといろんな人の身にふりかかればいいと願う。
清水ミチコと矢野顕子
高校演劇鑑賞ツアー隊が結成されてもう何年か。
高校教師の男友達、その同僚の先生、わたし。
今回は群馬からやってきた友達の後輩、ひとみさんが巻き込まれた。
京都に来たなら、神社仏閣、史跡名勝、グルメ巡りとかいろいろあるだろうに
ひとみさんは、あっけなく車に乗ってしまった。
行き先は京都造形大学・春秋座(劇場)。
車内BGMは「YouTubeからとった矢野顕子のモノマネをする清水ミチコ」←音声のみ。
観劇の演目は「村田さんと東尾さん(改)」。
ここでフツウならなにかおかしい、と気づくものだが彼女はかわいい顔でニコニコしているので「ほんまにええんか?」とこっちがとまどってしまう。
それにしても大谷高校の「村田さんと東尾さん(改)」にはやられた。
この世の中で見られる人はもういないと思うので、ネタもばらす。
舞台は部員が2人しかいない弱小演劇部。ここまではよくあるパターン。
演劇部として認められる日を夢見て、ESSのエキストラやバスケ部の応援などをして苦悶の日々を過ごしている。これもまあ、ありがち。
そしてもちろん2人の名前は、村田と東尾。ヒネリのないタイトルだ。
しかし、観客はクライマックスで今までの流れすべてが脚本だったことを知らされる。
脚本を書いていた「村田さん」が退部したため、そこまでしかストーリーがないのだ。
実は「村田さん」を演じていたのは田中という子で、「村田さんは田中さんの真似がうまい」という設定なのだが、
田中は自分の真似をする「村田さん」を演じていただけで、しかも部員でもなんでもない助っ人ということが判明する。
たったそれまでといえばそれまでなのだが、このどんでん返しの無茶さに、心底驚き笑わされ「ブラボー」と叫びたくなった。
舞台には根拠不明のエネルギーがうずまき、女子度の低そうな役者2人がこの芝居に賭ける情熱がほとばしっていた。
もう一つ、チェーホフの三人姉妹を現代版に置き換えた「SISTERS」(神戸高校)という作品もあったのだが
こちらは、脚本、演技とも優等生的であり、まあ全国大会出場は納得にしても全国制覇するにはパンチが少し足りない気がした。
帰りに「猫町」でお茶して、また清水ミチコが流れる車に乗り込んだ。
「清水ミチコ」には、矢野顕子のみならず桃井かおり、田中眞紀子、デヴィ夫人、えなりかずきなどのバージョンがあった。
本当は、矢野顕子なんてはじめから存在していなくて、矢野顕子を演じる清水ミチコしかいないのではないか。
この世の芸能人はすべて、清水ミチコ一人なのではないか、という幻想にとらわれた。
一人で京都市動物園。
という罰ゲームのような取材で、身も心も冷えきった。
詳しくは言えないけど、まあ「どこまでやれるか」というお一人さま的な企画。
言い出しっぺなのだから文句いえない。
で、その帰りに、どすグレーな心を洗い流してくれたのが「Dr.パルナサスの鏡」。
試写を見逃したので、絶対初日に観ようと決めてた。
見世物小屋一座の物語。
永遠の命と引き換えに自分の娘が16歳になったら悪魔に売り飛ばす契約をしてしまった1000歳のどうしようもないオヤジと、
その娘&記憶そーしつの青年(これをヒース・レジャーが死ぬ前演じてた)。
「わかるようでわからない感」「貧しさが醸し出すドナドナ感」「それでもかすかな希望を求めずにはいられない感」。
匂いでいうと、それこそ動物園のような、あんまり嗅ぎたくない種類の奇妙さ。
好きなテイストがすべて詰まってた。
途中うとうとしてしまったシーンもあったけど(寝たんかい)、目の前に広がるのは、ぐにゃりと歪んだ極彩色の夢の世界。
つじつまが合っている部分とあっていない部分の配置が絶妙で、ほんとうにほんとうに土下座ものです。
好きです、素直に。
劇団でいうと天井桟敷とか紅テントとか、そっち系かなあ。
でももっともっとお金がかかっているはずだし、センスはいいけど。
観に行く人は、エンドロールの最後の最後まで席を立たないでください。
蜘蛛女のキス
チケットが巡り巡って私のもとへ。
アルゼンチンのゲイ作家、マヌエル・プイグによる原作。
牢獄の中で、男同士が仲良くなって結ばれる、というお話。
タイトルは、あまり意味を成さない。
怒りを通り越して笑いがわいてきた。
この世界観を日本人に理解させようというのが土台、無理ではないか。
社会情勢、ジェンダー観、エンタメ観・・・何もかもが違いすぎるのに、訳知り顔で、舞台上の人間だけが感極まっている!
観客はぽかーん。
800円だろうが1万円だろうが、芝居をみての感情の起伏ボタンは同じなのだから、裸の王様みたいなこと、やめてほしい。
女3人でさんざん舞台の悪口をたたき、解釈の違いに大笑いし、ビールを飲んでイタリアンをたらふく食い、千鳥足で蜘蛛女のダンスを真似て騒ぐ冬の夜道がたのしかったから、まあ、よし。