小沢健二ライブ「ひふみよ」

青春というものがあるとすれば、はじめのほうのそれは、小沢健二そのものだ。


8センチCDで、テープで、MDで、iPodで15年以上聴き続けた声が、すぐそばにあった。

あの頃20代だった王子も、40歳を越えて、でも世の中から数センチ浮いた感じはそのままで、センター分けサラサラヘアもそのままで、骨の形と長さがよくわかる手や足もおんなじで、それはそれでちょっと笑えた。

真っ暗闇から始まったライブは、甘い声で自作の散文の朗読をはさみながら、ずんずん塗り変えられていく絵のように進み、曖昧だった「小沢健二」のイメージがだんだん形を持ち始める。

彼らしいのは、それが語りかけではなく、文字の朗読だいうこと。噛みもするし、言い直しもする。

おそらく客の大半が初めてであろう生のオザケンワールドは、泣いたり笑ったりして迎え入れられてた。


「この国の大衆音楽の一部であることを嬉しく思います」

そう言って、自作の音に身を委ねる。どんな気持ちだろう。歌というものを通して価値観を提示する、歌手であることに違いはないのだが、13年たって同じ歌を同じテンションで同じ意味を込めて歌える、一人の不思議なおっさんがそこにいた。



複雑な思考回路を理解しようとするけどどうしても埋まりきらない溝、があって、まぁ彼の魅力はその「わからなさ」に集約される。


ラブリーの歌詞を少し変え、新曲を3つ披露し、何故かスカパラの今後の予定を告知し、自分の今後については何も云わずに、夢のように去って行った。


次に会えるのは、私が45歳の頃だろうか。


オザケンに浮気してたら、今日せっちゃんに子供が生まれた。


二人は絶対友達にならないだろうけど同じほど愛している私の二面性を自分でもうまく説明できない。