死だの

芝居を2本みた。

五反田団「生きてるものはいないのか」

不条理に、次々人が死んで行く。原因不明、ゲームのようにあまりにもバタバタ死んでいく。「あ、おれも死にそう。やばい来た」「え?まじで?」「最後の言葉は短い方がいいな」おおよそ悲しさとはほど遠いポップな日常会話の中に死が続く。中には愛する人に自作の気味悪い歌とマイムマイムを吹き込んだテープを残したまま死ぬ人とか。で、そのマイムマイムがシリアスになりそうなシーンで流れ出したりするものだから、観客はちっとも「死」と向き合えない。

でも「死」というのは実は関係ない人にとってはそんなもんで、とても個人的なものだ!
ってことに気づく。考えると当たり前のことだけど、びっくりする。
けど死にそうな人は、通りすがりの人にでも「一緒にいて」という。通りすがりの人は「いいけど、早くして」なんて言う。

この人たちは平田オリザ・チルドレンでオリザよりもさらにシニカルで薄っぺらなところがわたしにとってはリアルで、痛い。

「『一人』ってどれくらいの距離だと『ひとり』?」
あまりに唐突にそのセリフがささって、涙が出た。

終わって鏡を見るとアイラインが落ちてパンダになってた。笑いすぎか泣きすぎかわからない。


■マレビトの会「cryptograph(クリプトグラフ)」

松田正隆という劇作家の初期の作品がわたしは本当に好きで、高校時代夢中だった。久々にみたら、とても難解で、抽象的な世界に突入していた。頭のいい人ってのはなんだってそう遠くへ行ってしまうんだろう。

言葉が先か肉体が先か
声は身体のそばにあるのか、言葉のそばにあるのか

そういう議論は嫌いじゃないし、そういうのが演劇界の歴史をつくんのかもしれないけどフツウ観客はそんなこと考えないぞ頼むから、もっとふつうの見せてくれ。それはさ居酒屋でホッケを頼んだのに断りもなくサバの煮付けを持ってこられたようなもので、まあ、あそこ最近ホッケないこと多いよ〜って知らなかった私も悪いのかなあ。こういうのって、役者は何考えながら演じんだろうと思ったら暗澹たる気分になった。

この芝居でも人は死に、すぐまた生き返り、「死」はどこまでも無表情だった。

なんだか「死」についてみせつけられた奇妙な二日間。まあ、嫌いじゃない。