七時半〜劇団八時半

今日は劇団八時半の芝居が七時半からあるので、会社を六時半に出た。ややこしいな。

劇団名をつける会議で、一日中話し合ってもいい案が出ず、ふと時計を見たら八時半だったというところから、この劇団名がついた、らしい。私は10年前の高校時代からこの劇団を観ているが、作家が岸田国士戯曲賞をとっても浮わつくことなく、作風も変わらず、関西から全国へ大きな存在感を放つこの劇団をMONO同様誇りに思っている。

この劇団のお芝居は、いつもはっきりと「さみしい」。
いい年したオトナが、さみしくて、悲しくて、ひとりぼっち。
一見うまく世間と関わっている風で、全然アウトロー
そんな人たちがいっぱい出てくる。

今日の芝居もそうだった。
「むかしここは沼だった。しろく」

でも、辛気くさくない。全然。
そこがすごい、いい。

昨日、読んだ舞城王太郎の本の中で「書き手が物語を選ぶのではない、物語が書き手を選ぶのだ」という言葉があったが、八時半の芝居はほんとそんな感じ。「ストーリー自身の求める書かれ方」というのを、鈴江俊郎という作家は発見する才能があるのだと思う。

物語は、山奥の発掘現場の事務所。
いくら掘っても掘っても化石が出てこない状況の中で、人は恋したり、失踪したり、狂ったりする。化石という死の形と向き合いながら、なんとか生きてることを確かめようとする会話たち。

観終わった後、「さみしい」って言うことが恥ずかしくなくなるような気がするから、すごい。
普段の私ならそんなこと絶対ないのに。かっこわる、とか言って大笑いなのに。