唐組「紙芝居の絵の町で」

コンタクトレンズは、その人の一日の風景を写してくれるものですね。

好きな人の顔も、おいしいご飯も、切符売り場も、街角も。

使い捨てる、ということに何の疑問も感じてはいなかったけれど例えばレンズの中に今日一日の一番心に残った風景が写し取られて残されていると考えたらどうでしょう。簡単に捨てられません。

・・・最近観劇をサボってましたが、唐組の季節です。

よかったです。唐。

今回は使い捨てコンタクトのセールスマンと、介護ヘルパーと紙芝居の元絵描きと、弁当屋と、看板屋がひとつの指輪を軸に結びつけられていく壮大な「唐版・指輪物語」。

この劇団の、いっこうに変わらないわりに古臭さを感じさせない、粘っこさってなんだろうと思います。

ひとつ考えられるのは、唐芝居は目にはみえない、形容詞のようなものをすごい勢いで具現化していってくれるところ。たとえば今回で言うと「青い」という言葉が、役者の身体と声と舞台美術、音響、照明を通して視覚以外で踊っているのをみました。一方で「婚姻届」や「キャッシュカード」などを巧みに登場させ、目でみえるものだけがすべてではないというテーマも高い温度で体感させてくれました。奇しくも、物ごとをクリアに見るための手段であるコンタクトレンズというものを話の題材にして。演劇の普遍的な役割をこれでもか、これでもかってくらいねっとりと、果たしているわけです。

さいころクレヨン王国」というシリーズの本が好きでした。あれがこどもの国のおとぎ話だとすれば、唐組はおとなの国のおとぎ話。血液と精液のにおいがして、貧しさと、明るさと欲望の混濁したスモーキーな虹色の世界です。

いつもの顔ぶれの役者が出てくると安心すると同時に、メイクで隠し切れない皺をみて、いつかこの劇団がなくなったらそのとき私はどんな状況でも泣くだろうな、とぼんやり思いました。それは皺のもっと深くにある、役者個人の人間としてのリアルさが舞台の境界線を超えて、ときに私を叱ったり励ましたりしてくれるからです。

唐組に行く前に、梅田のタワレコで偶然小谷美紗子のインストア・ライブのリハに遭遇しました。今思えばその切ない旋律は、今日の嵐の幕開けでもございました。

視力0.01の私にとって、コンタクトレンズは世界との距離を縮めてくれる大切な存在です。けれどいつも現物がクリアに見えることが、はたして本当に幸せなのでしょうかと考えかけた一日でした。