弔辞のその先

自分がいなくなった後の世界を想像するのは難しい。
何度か考えたことがあるが、やっぱり難しい。

以前、ライタースクールで「自分への弔辞」という課題が出たときに、わたしはどういう死に方をするかな、と思いめぐらせてみた。ものすごく長く苦しんで死ぬのは厭だ、交通事故で死ぬのも厭だ、自殺はありえない。考えれば考えるほど死ぬことにウンザリしてきて結局「豆腐の角に頭をぶつけて死んだ」ことにしてしまった。当然、友人は相当ショックを受けることになる。

弔辞で悪口は言わない。友人は、わたしのどういう部分が好きで、どういう影響を受けたか、亡くなっていかに残念かを語る。となると、とっても客観的に今まで自分は他人とどう関わってきたかを考える必要があった。



「末期ガンになったIT社長からの手紙」と「ニュース23」で一躍有名になった藤田憲一さんが昨日亡くなったそうだ。彼のブログは彼によって更新された日のまま止まっている。ブログは、誰かが閉めない限り永遠にあり続ける。いつか「web墓参り」をする時代が来る、とある人が言っていたが、この、とぎれている生のリアルがweb上と人々の心の中にずうっと残りつづけるんだ。そしてこの人がしていたガンとの闘いは、ガンではない、別のものと闘っている人のチカラにもなったんだろう。何故だか、どこのニュースにもなってないんだけど、今、mixiの中では彼と全然接点のなかった人も、いっせいに藤田さんの冥福を祈り、彼の存在に感謝している。

「今」ってのは藤田さんの見ていない世界だ。
彼が決して目にすることのない時間をこれからわたしたちは生きていく。

スイッチが入らないと、生きることに無頓着になりがち。
さて、じゃあわたしが自分の人生かけていつか自分のいなくなる未来に残せるものは何か?