ばあちゃんの葬式
「四国のばあちゃん」が、死んだ。
ずいぶんと長い間、重度の要介護状態で、会ったからといって話せるわけではなかったが、それでもばあちゃんを核に、わたしたち親族は四国に集まり続けていた。
四国の葬式に出るのは、二度目だ。一度目のじいちゃんのときは幼くてほとんど記憶にない。何を思ったかわたしは、ひとつ年下の従妹と供花の菊を丁寧に一枚一枚はがしてきゃあきゃあはしゃいでいたら、目を腫らした母にえらく叱られてしゅんとなったことだけ覚えている。
わたしにはイトコというものが14人いる。父も母も4人兄弟でそれぞれが結婚し二人ずつ子供がいるから。(ねずみ講のようだ)その半数が久しぶりに集結した。
お経を唱えながら、となりの叔父も、その横の息子もその息子の娘も、みんなこのばあちゃんがいなければ存在しなかったのだなあと思うと改めてばあちゃんは偉大だと思った。遺影。和服に身を包んだばあちゃんなんて見たことがなかったから、いつの写真だろうと思って聞くとなんと「合成写真」だった。たまげた。もとになった写真は、わたしの従兄とのツーショットで、村のお祭りのときのもので、ばあちゃんは本当にうれしそうだった。それを見てわたしは少し泣いた。
息をつく暇もないくらい、次から次へとプログラムが進んでいって、あっという間にばあちゃんは、灰になった。葬式というものは、不思議だ。家の中は見知らぬ親戚やご近所さんだらけで、忌みごとというよりはちょっとしたイベントのような興奮に包まれる。4歳の従兄の子供が、昔のわたしのように、はしゃぎまくっていた。
なかなか、ちゃんと泣ける雰囲気ではなかった。けれどそれはそれで、よかったのかもしれない。少なくとも、ばあちゃんはいい顔で庭の外の風になっていた。
わたしは、ばあちゃんの部屋の隣で寝ることになった。夜、ばあちゃんの部屋をのぞくと介護用品や名前の書かれた薬袋やなぜか1996年の9月で止まっているアメリカ土産のカレンダーが初めて、ばあちゃんの不在を語ってくれた。ああ、1996年は従姉がアメリカに行っていた頃だったかな。また少し泣いた。
ばあちゃんは自分が生んだ唯一の女の子にこう言って育てた。
「人に妬まれる人になりなさい」
妬むよりも妬まれる人の方が、幸せなのだという。
そして、わたしはその女の子から生まれた。
瀬戸大橋をわたりながら、その話を聞いた。
ばあちゃんなりのロックだな、グレイトだな、と、思った。