「ひろしま」

「爆心地」から空をみあげる。

曇り空の中、鳩が群れをなして飛んでいく。

表通りから一筋はいった路上の碑。「島外科」の前。隣はモータープール。

原付バイクで日常を行き交う音。

先日、生まれてはじめて広島を訪れる決意をした。

重い気持ちを抱えて駅を降り立ったが、路面電車がはしる街はのんびりとした明るさに包まれていた。大通りの脇には百貨店や商店街、マンションや企業のどっしりとしたビルが立ち並んでいて、若い子たちが嬌声をあげながら横断歩道を渡る。

その中に。原爆ドームは、あった。半球の鉄筋を剥き出しにして、セピア色で、どっしりと。

市電から一緒だった外国人の家族連れ。アメリカ人だろう。同じ看板に見入るわたしは、今いったい自分がどんな顔をしているだろうかと、こちらの方がこわばってしまう。

1月のなんてことはない日曜日。部活動帰りの女子中学生たちが通るほかは、ほぼ観光客で、むしろ日本人の方が少ないのではないかと思うほどであった。まず、それだけの時間がたっていることを思い知らされた。

実際にその地を足でふんでみないと舞台には立てない。

戦争の芝居を関わることになり、まっさきにわたしはそう考えた。 やはり、そうだった。

わたしの踏んでいるコンクリートの下で、何万という人が、あの日、死に絶えたのだ。川を横目にみながら、流れる速度を感じ、その上に人を投影する。慰霊碑に向かって目を閉じると、足の底からいいようのない感覚が昇ってきて目のまわりが熱くなった。

「原爆反対に、反対することは誰もできない。誰も反論できないことを強制するのはファシズムだ」と「原爆ファシズム」を唱えた作家がいたそうだが、私も現在の反核反戦運動に対して今までどこかそういう思いを抱いていたことは確かだ。幼い頃「はだしのゲン」を読み、その絵の恐怖ばかりに煽られて夢にまでうなされるほど、わたしは原爆という言葉に対して拒否感を持っていた。もう聞きたくない、見たくない、だって今は平和なんだからもういいじゃない。

そう思って、恋愛し、芝居をして、テレビをみておいしいもの食べ、試験勉強にあせったり、就職の面接に緊張し、営業成績を気にしたりする、日常に原爆が、戦争がない日々をおくっていた。

体験しないと無理だろう。骨の髄から反戦を唱えることは。

そして視界に原爆ドームのない、京都では。そう思っていた。

しかし25歳で、あらためて追体験すると、原爆は単なる恐怖とは少し違った。気づいたことは、それは、あくまでも当たり前の日常の中に突然ふってわいた地獄であったということ。戦時中ではあっても母の愛、父の愛、友人の愛に包まれた、日常のさなかに起こった事件であったことを。ただ、8月で、夏で、広島だった、というだけ。その惨さだった。

原爆は人間の手によってつくられた不思議だ。同じ人間のもつ、小さな怒りや嫉妬、不安、欲望の感情の延長線上にそれはあり、膨れ上がって、広島の頭上でそれは爆発した。

どうして、とただただ思った。せつなかった。原爆について、はじめて「かなしい」と思った。広島には行き場のなくなった愛がたくさん浮遊していた。届かなかった愛を、わたしは手を合わせて地に眠る人々に伝えようとした。広島を訪れることの意味は、無関係の自分に媒介させることで、つながれるところにあるかもしれない。この気づきは重要だった。

いつか、原爆の子の像の折鶴が焼かれた事件があった。そのニュースを聞いても「そんなことはしてはいけないだろう」程度だったが、今ならはっきりと怒れる。

白島の郵政公社の駐車場の片隅に、栗原貞子の「生ましめんかな」の詩が刻まれた碑をみつけた。通りかかった警備員に声をかけられる。京都から来たのだ、と言うと普段あけていない資料室をみせてくれるという。ある部屋に通され、心がまえのできていなかったわたしは息をのんだ。そこは広島逓信病院旧外来棟の旧手術室だったのだ。改修が施されたとはいえ、がらんどうの空間、青白いタイルに蛍光灯が不気味に光る。これが最後の風景だった人を思うと突然、必死に生きようとした人たちの姿が見えた気がした。執念とも言えるその「生」の気に、わたしの身体は四方八方から痛いほどつつまれ、言葉を失った。

「生ましめんかな」

この詩がなぜ、大切に扱われているか。それは「生」のしるしを、ナマで教えてくれた偉大な人間が赤ん坊だったという事実。生き残ったことを攻め続けながらも、生き続けることを選んだ人への応援歌だ。

金髪の女の子が、原爆の子の像の下で嬉しそうに鐘を鳴らす。

平和記念公園に澄んだ音が響きわたる。

静かに見守る母親。

どんなに本を読んでも、映画をみても、わからなかったことは、広島の温度や、そこを訪れる人たちの表情や、人種そのもの、被爆者とそうでない人が共生するこの町に住む人たちの出す空気だ。

世界遺産に登録された原爆ドームのまわりの柵を乗り越えることはもうできない。それをデジタルカメラに収める外国人。丹下健三建築の資料館の横にはさらに洗練された祈念館。記念公園の整備のされ方は見事だ。2006年も、2007年も、2010年も、すこしづつあの日とは距離ができてくる。そのどれもがほんものの広島なのだ。

別に反戦反核デモの先頭に立たなくてもいい。それについての「自分の思い」を見つけることなんだろう。小さくても。それなりに。ようやく身体にすとんと落ちた。

うちの会社は、新年の社員総会で「君が代」を歌う。ふと隣のKさんが立ち上がりながらぼそりと言う。「うちは歌わへんねん。広島やから」。いつも冗談ばかり言っている彼女のはじめて見せる意思。

「広島だったんですか。」

「そ、因島やけどね。田舎よー。島、島(笑)」

そうか、そういうことにもなるのか。結局、歌の間中雑談でごまかしたが、彼女の横で歌うことはできなかった。

そう遠くない未来、頼まれもしないのに、自分の子を広島につれていくかどうかについては、まだ答えが出ない。その子が「ひろしま」と出会うことになる日を、思う。