女優復活。

ひょんなことからまた舞台にたつことになった。

中学時代の恩師(60)が、退職を期に一旗あげたいということになり、なんと京都演劇フェスティバルの枠を一枠とったというのだ。しかし、プランはまったくの白紙。ただ、世代を超えた元演劇部の教え子たちが20人ほど集まった。

彼女は国語の教諭で、ことあるごとに戦争を題材にした教材を私たちに与え続けたし、また、顧問をする演劇部内ではしばしばそれをテーマにした芝居もやっていた。今回もその線でいくことは決まっているのだが、なぜ今戦争なのか、というところでわたしたち生徒側は立ち止まっている。

先日紅白歌合戦で、吉永小百合栗原貞子の詩を朗読していた。戦後60年の終わりの日に、60歳の彼女は。そんな彼女でさえ戦争体験はない。親しい人間を失いたくないという意味では誰だって反戦を唱えるだろう。だが少なくともわたしは今日の「反戦運動」という言葉と、それが醸すイメージがどうも陳腐なものに思えて仕方がない。なんでだろう。

舞台にたって何かを伝えるからには、わたしたちなりに戦争を理解する必要がある。未体験なりに。20代なりに。

今日、コンテンポラリーダンサーと会った。集中すると無意識に身体が動く自分がいた。無感情からは何も生まれないことを改めて思った。思考をとめずに、踊り続けようと。

午前9:30から「今年もよろしく」ってビール飲みまくって、「このチーズ鱈いけますよ」なんて言って、行き先表に「挨拶まわり NR」って書き込んで、昼から上司と初詣いって「大吉」ひいたあとに「縁結び」の神社でしたよって大笑いして寿司食いまくって、それから梅田のセールでまた服買って、JRで京都かえって地下鉄のって10年前に自分が学んでた中学の校舎に足踏み入れて、議論とストッキングのままコンテンポラリーですよ。今日一日のまあまあのギャップに驚く。

駅の改札口で日常を踊っているOLがいたら、それはわたしです。